満員電車ブルース

間もなく 2番線に電車が参ります
危ないですから 白線の内側にお下がりください
ガタンゴトン ガタンゴトン
満員電車が やってきた
ドアが開いて 人が降りる
人が乗って ドアが閉まる
推定乗車率 約550%
車内はパンパン おしくらまんじゅう
電車が動く 電車が揺れる
人が倒れて ドミノ倒し
足を踏まれる 肩がぶつかる
一触即発 地獄絵図
車内はまるで 奴隷船
新聞広げる サラリーマン
スマホに夢中な 女子高生
顔を歪める 外国人
優先席の 子連れママ
みんな仲良く 満員電車
外は真っ暗 トンネルの中
みんなを乗せて 電車は走る
やがて差し込む 一寸の光
隣の駅に 電車が着いた
電車が止まる 電車が揺れる
車内は再び おしくらまんじゅう
ドアが開いて 人が降りる
人が乗って ドアが閉まる
推定乗車率 約550%
プラマイゼロの 満員電車
電車が動く 電車が揺れる
人が倒れて ドミノ倒し
足を踏まれる 肩がぶつかる
電車は再び 闇の中へ
僕の家まで あと12駅
近くて遠い 僕の家まで
あと12駅 あと12駅

渡嘉敷島の思い出

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吾輩は亀である

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吾輩は亀である。名前はまだない。

今日も私はいつものように、店番をしていた。何ひとつ変わったことはない、平凡な月曜日の午後だった。2時半頃、とある男女が店にやってきた。二人とも30歳くらいだろうか。男は白いシャツを着て、肌は浅黒く痩せていた。女は髪を後ろで結び、グレーのタンクトップにジーンズを履いていた。一見すると何の変哲もない、今風のアベックだ。二人はしばし、部屋のテーブルに向かい合って座り、風鈴の絵付けを行なっていた。

しばらくして、先に絵付けを終えた男の方が、私の横を通って店の外に出た。女を待っている間、一服でもしに行ったのだろう。やがて男は店に戻ってくると、ようやく私の存在に気付いた。私の家、もとい水槽は、店の階段を上り二階の部屋に入ったすぐ右にある。男はしばし、水槽の上から私の姿をまじまじと見つめた。私のような立派な亀に出会うことが、よほど珍しかったのだろう。無理もない。私の甲羅は極めて大きく、さらには頑丈で、同時にある種の美しさも備えている。水槽の中をゆっくりと這うようにして足を動かす私の仕草は、人間のそれとは比べ物にならないほど優雅であることに疑いの余地はない。自分で言うのも何だが、顔もなかなかハンサムだ。過去に何百人、何千人という人間の女ーー主には子供だがーーが私を見て、悲鳴にも似た黄色い声を上げた。

男は水槽に顔を近付け、私の顔をじっと覗き込んだ。変わった男だ、と私は思った。言うまでもなく、私の最大のチャームポイントは甲羅だが、私の顔にここまで興味を持つ人間は珍しい。男は両目を見開き、私の目をじっと見た。睨みつけた、と言っても良いかもしれない。それほどまでに男の目は、どこか挑発的な色合いを帯びていた。面白い、と私は思った。私は前足を水槽の壁に這わせ、立ち上がった。水中から半身を出し、男の目を見上げた。男は一瞬、驚いたような表情を見せたが、私の顔を凝視し続けていた。私は口をパクパクさせ、男を威嚇した。

正直に申し上げると、私は今朝から何も食べていなかった。つまり、腹が減っていたのだ。店の主人ーー私のパトロンであるーーは今朝から忙しく、私は何も食べるものを与えられていなかった。まあ、よくあることだ。私は密かに、今目の前にいるこの男が私の空腹に気が付き、何か食べるものを与えてくれるだろうか、と期待した。しかし男は、そのような素振りは一切見せず、代わりに取り出したのはアイフォンだった。男はアイフォンを水槽の前に掲げ、パシャパシャと写真を撮り出した。お安い御用だ。私は持ち前のサービス精神で頭を突き出し、決め顔を披露した。男は夢中で写真を撮った。何枚か撮ったうちの一枚がとてもよく撮れたらしく、男は満足そうな笑みを浮かべた。被写体が良いのだから、当然だ。

男はアイフォンをしまうと、再びまじまじと、私の顔を見つめた。男はまるで、生き別れた兄弟に再会したかのようだった。もっとも正直に申し上げると、私の方もこの男に、何か得体の知れない親近感のようなものを覚えていた。それはこの男が、いかにも鈍くさく、のんびりとした時間を生きているように、感じられたからであった。人間はしばし、どこか鈍くさかったり、ノロノロと動く人間を「亀のように」などと言う。私たち亀は人間にとって、鈍くささやノロさの象徴とされているようだ。傍迷惑な話である。まず第一に、私は動作こそスロウであるものの、決して鈍くさいわけではない。むしろ、極めて鋭敏な感覚を有している、と自負している。それは、動作がスロウであるからこそ、とも言える。私はこの立派な甲羅を背負っているが故、足を自由に動かすこともままならない。文字通り、人間とは背負っているものの重さが違うのである。足を自由に動かせないがために私は、常に周りの状況を俯瞰しながら、一歩先、二歩先の未来を予測する。たとえば、この男が今にも右手をポケットに突っ込もうとしていたそのとき既に、私は写真を撮られることを予感していた。このように、周りを見て次に何が起こるか予測し行動することを、人間の世界では「空気を読む」などと言うようだが、普段は水中にいる私にはあいにく、読むに値する空気がない。従って、私は決して周囲に流されたり同調圧力に屈しているわけではなく、単に予測しているに過ぎない。そして、その予測の精度が極めて高い、というだけの話なのだ。

そんなわけで私は、多くの人間が考えているほど、愚鈍な生物ではない。むしろ愚鈍なのは、人間の方である。

私はこれまで、この水槽越しに、数多くの愚鈍な人間は見てきた。大人から子供まで、様々だ。彼らの愚鈍さというものは、私のように動作がスロウであるとか、そういった類のものではない。端的に言うと、頭が悪いのだ。どれだけ手足を機敏に動かしていても、まるで知性の欠片もない人間というものを、しばし見かける。彼らに共通しているのは、想像力の欠如である。たとえば、この店を訪れる人間の多くは私を見ると、水槽の前にしばし戯れ、写真を撮り、それで終わりだ。私が毎日この水槽で何を考え、何を思い、どんな気持ちで写真を撮られているか。そんなことを彼らは、微塵も考えはしない。想像力とは、他者の立場に立ってものを考える、ということである。その他者というものが、亀であってはいけない理由などないだろう。私の立派な甲羅は何のためにあるのか、考えたことがあるだろうか?正直に申し上げると、私はない。生まれたときには既に、甲羅を背負っていたのだ。これは無論、何かを背負うものの宿命である。背負った以上は、命をかけて守り抜く。そこに理由などないのだ。

この世のありとあらゆる生物は、大きくわけると2種類にわけられる。何かを背負って生まれてきたものと、そうでないものだ。

私はもちろん、前者である。そして人間は、後者だ。これこそが、亀と人間の間に横たわる深い溝である。もっとも人間のなかにも、生まれてきた後に自ら、何かを背負いたがる物好きもいる。近頃は、私の店にもよく、外国人のバックパッカーがやってくる。彼らは大抵、背中に大きなリュックを背負い、大粒の汗を流しながら店に入ってくる。彼らは何かを背負いたい、背負わずにはいられないのだろう。私には、彼らの気持ちがよくわかる。人も亀も、背負うべきものがあってこそ、その生は輝きを増す。無論、私は生まれて此の方、何かを背負わなかったことがない。いつ何時も、この甲羅と共に生きてきた。私はこの甲羅に、命を救われたこともある。あるとき、鈍臭い女子中学生がやはり私の写真を撮ろうとして、アイフォンを水槽の中に落とした。アイフォンは水しぶきをあげ、水中で私の甲羅に激突した。もしこの甲羅がなかったら、私は落下したアイフォンの衝撃に耐えられず、死んでいただろう。しかし私は無傷で、代わりに死んだのはアイフォンだった。甲羅はアイフォンよりも強し。亀が人間の文明に勝利した瞬間だった。私はこのときほど、自らの甲羅を誇りに感じたことはなかった。

人間という生き物はどうも、速度というものを愛しているようだ。何ごとも速ければ速いほど良い、と思い込んでいる節がある。しかし私に言わせると、それは間違っている。豊かな生というものに、速度はさほど必要ない。私はこの小さな水槽で日々、たまに食べるものを与えられながら、のらりくらりと毎日を過ごしている。それで充分なのだ。私はいつも水槽から、目まぐるしく動き回る人間たちを見て、思う。何をそんなに生き急いでいるのだ、と。私は言いたい。もう少し私のように、のんびりしたら良いではないか。住む家があり、食べるものがある。それで充分ではないか。確かに私は、決して俊敏ではない。俊敏ではないことが、亀を亀たらしめているとは言え、私ももう少しばかり素早く動けたら、と思うこともある。しかし今のところ、何不自由ない暮らしを送っていることもまた、事実である。世の中は今、過剰である。モノや情報が溢れ、ありとあらゆる欲望を刺激する罠が、そこら中に仕掛けられている。私は言いたい。人間よ、身の丈を知れ、と。私の目から見て、彼らは必要以上のものを抱え込み、それを持て余している。少なくとも亀目線では、そのように見える。豊かに生きるために、本当に必要なものは驚くほど少ない。私だったら、水槽と水と少しばかりの食料、そして言わずもがな、甲羅さえあれば生きていける。私は言いたい。たとえばもし、私と人間が100メートル走を競うとしたら、私は負けるだろう。悔しいが、完敗だろう。しかし今から100年後、地球で生き延びているのは果たして、亀と人間のどちらだろうか?おそらく亀だろう。これは何も、私自身が亀だからといって、ポジショントークに陥っているわけではない。急激な気候変動、エネルギーの枯渇、生態系の異変、ありとあらゆる今後の未来で起こり得ることを見据えると、このような結論に至る他ないのである。確かに私は、人間のように器用に手先を使うこともできなければ、鳥のように空を飛ぶこともできない。飛べない豚はただの豚だが、飛べない亀もただの亀である。しかし、仮に私が空を飛べたところで果たして、それが私の生存に寄与するのであろうか。答えは恐らくノーだ。空中にはーー私は空を見たことがないので、あくまでも想像だがーーあまりにも敵が多い。いくら私の甲羅を持ってしても、カラスのくちばしに挟まれたり、ドローンに激突したりしたら、ひとたまりもない。だから私は、翼が欲しいなどとは思わない。私はこの甲羅と共に、水の中で生きていくのである。これまでも、そしてこれからも。

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2017/6/18 エリック・カール展@世田谷美術館

2017年6月18日(日)

天気:曇り後雨

 

今日は、世田谷美術館に行った。

お昼すぎに家を出て、歩いて砧公園へ。曇り空が広がり、少し肌寒い。夕方は降水確率100%だ。10分ほど歩き、砧公園に到着。家族連れで賑わっている。美術館に向かう道の途中で、上半裸のスケボー集団に遭遇。通行人の邪魔だ。みんな迷惑そうにしている。気付いてないのか、敢えてやってるのか、ただの厨二病なのか。木々が生い茂る森を抜けて、美術館の入り口に到着。エリック・カール展。はらぺこあおむしで有名な絵本作家だ。館内は激混み。大半が小さな子供を連れたファミリー。とにかく子供が多い。少子化が嘘みたいだ。1200円のチケットを買って入場。1200円は高すぎる。ヨーロッパみたくタダにしろとは言わなくとも、300円くらいにして欲しい。行列に並びながら、ゆっくりと展示を見る。エリック・カールは1929年生まれ。ドイツ系移民のアメリカ人で、戦時中にドイツに移り住んだが、戦後にアメリカの「自由な空気」が恋しくなって、ニューヨークに戻ったらしい。若い頃は、広告のポスターを作る仕事なんかをしていたそうだ。目の前に、背中に「Think and Act」と書かれた白いウィンドブレーカーを来た男の子がいる。美術館にいる間、やたらとこの子の後ろ姿が目に入った。床に座り込んで駄々をこねたり、泣き叫んでいる子供もいた。「はらぺこあおむし見たいいい!!」と絶叫している。衝撃的な理由だ。ちょっと人が多すぎて疲れた。何も日曜日に家族連れ集団に混じって行くことはなかったと反省。たぶん1時間ほど鑑賞して外に出ると、雨が降っていた。森と雨の組み合わせは、アンダーワールドのボーンスリッピーを思い出す。確か僕が高校1年生だった2002年の曲だ。美術館のカフェでお茶をしてから、砧公園を出た。

芸術、というか創作の欲望みたいなものは、社会の抑圧から生まれることがあると思う。僕も「自由な空気」に憧れているし、バルセロナやベルリンにもし住んだら、社会の抑圧や閉塞感から解放され、より自由に、創造的になれるのではないか?そんなことを考えたりもする。同時に、東京で感じる抑圧や閉塞感みたいなものが、表現することへの渇望、エネルギーになっているような気もする。自由に書きたいことを書くことは、僕の精神安定剤になっている。こうして思いついたことを書くことで、この過剰な社会で何とか正気を保っているような気がする。自分なりのバランスの取り方というか。

芸術とは一体、何だろうか?芸術とは何を持って、芸術というのだろうか?とりあえず今の世の中では、芸術というものが強く求められているような気がする。行き過ぎた資本主義、経済思想の反動なのかもしれない。

今日美術館に来ていた人たちはみんな、あの絵を見て何を感じ、どんなことを考えるのだろう。見終えた後、奥さんや旦那さん、子供とどんな話をするのだろう。もしかしたら、美術館を出た後に感想や思ったことをアレコレ喋るのは、野暮なのかもしれない。デートで映画を見た後に、映画について延々と語るのが野暮なように。日曜日の午後に子供を連れて砧公園に行き、ついでに美術館も、というのは、今どきファミリーのオシャレな休日の過ごし方なのであって、それ以上でも以下でもないのかもしれない。わからない。家族で美術館に行く、という行為そのものが重要なのであって、そこで見たものが何であったかは、さほど重要ではないのかもしれない。少なくとも僕自身には、そういう感覚が多分にあった。美術や芸術に疎い僕でも、はらぺこあおむしは知っている。その作家の展示が近所の歩いていける美術館でやってるから、何となく行ってみたに過ぎない。普段はあまりしないことを、ちょっとしてみたかったという気持ちもある。美術館に行く、という行為そのものに、ある種のファッション性があり、何かのメタファーになり得るのだろう。美術館に限らず、野球場だって何だってそうだ。

帰り道、酒屋に寄り道して煙草を買い、店の前の喫煙所で一服していたら、変なおっさんに話しかけられた。はじめはおっさんが何を言ってるのかよくわからなかったが、この辺りには公共の喫煙スペースが全然なくて、ようやく見つかった、と安堵しているようだった。昨日は蒲田に泊まっていて、蒲田ではあちこちに吸える場所があったと語り出した。このおっさんは一体、どこから来たのだろうか。おっさんは、この辺は全然煙草が吸える場所がない、と嘆いていた。僕は、この辺は子供も多いですからね、と適当なことを言った。おっさんは特に反応しなかった。子供が多いことと喫煙場所が少ないことの相関関係がピンと来なかったのかもしれない。おっさんは煙草を吸い終わると、いい場所が見つかって良かった、と言って、斜め向かいの和菓子屋に入っていった。このおっさんは一体、何者なんだろうか。謎は解き明かされぬまま、僕は帰路についた。

世界には、不思議なことがたくさんある。

自由とは何か

一昨日発売されたばかりの新書、平野啓一郎『自由のこれから』を読んだ。面白かった。主にはテクノロジーの急すぎる進化によって、人間の自由意志はどうなっていくのか、という話である。

昨日、アマゾンがホールフーズを買収したことが発表された。平野氏の本の中では、アマゾンの話が何度も出てくる。10年前、インターネット界の巨人はグーグルだったが、今はアマゾンだ、と。確かにそう思う。最近の10代や20代の子なんかは、グーグルなんて使わない子も多いらしい。僕もほとんど使わなくなった。正直、検索とかダルい。でも、アマゾンは使う。しかも、使用頻度は増えている。これは明らかに、時代の流れだと思う。

アマゾンの特徴は、何といってもレコメンド機能だろう。僕の購買履歴や閲覧履歴をもとに、オススメの商品を出す。気の利いたレコメンドのおかげで、欲しいものを探す手間が省ける。というか、欲望を創出する。これがアマゾンの真髄であって、家に届けてくれるのはオマケみたいなものだと思う。この前、二子玉川の蔦屋書店に行ったとき、気の向くままに1時間ほど色んな本を物色したが、何も買わなかった。翌日、今度はある本を買うためにやはり二子玉川の蔦屋書店に行き、5分でその本を買って店を出た。僕はその本を、蔦屋書店の店内で見つけたわけではない。前日、ガールフレンドにレコメンドされたものだ。蔦屋書店の店内をいくら歩いても、欲しい本はあまり見つからない。正確には、そこで出会った本をあまり欲しいと思わない。僕の欲望を掻き立てるのは、平積みされた本ではなく、あくまで僕向けにレコメンドされた本なのである。同じ本であっても、出会い方によって、買うときと買わないときがあるということだ。

これは一体、どういうことだろうか?本屋でたくさんの本の中から欲しい本を選ぶのは選択のコストがかかるけど、僕のことをよく知る人(もしくはロボット)に「あなたにはコレ!」とピンポイントで一冊レコメンドされたら、購買のハードルがグっと下がるということだろか?おそらく僕の深層心理では「自分で選んんだわけじゃない、レコメンドされたのだ」という意識が働いている。だから、仮に買った本がつまらなかったとしても、僕の責任ではない。これは僕の選択ではなく、ガールフレンドやロボットの選択なのだ、と。しかし、フラッと入った本屋で一冊の本を選び買うのは、紛れもなく自分の意思であり選択である、ような気がする。実際のところ、その本を目立つところに置いた書店員の思惑とか色々あるのだが、少なくとも僕個人に向けてマーケティングされたものではない。つまり、たとえ同じ商品であっても、誰でもない大衆に向けてマーケティングされた時点で僕は、買う気を失くすのだろう。逆にいうと、僕向けにピンポイントでオススメされた商品なら、興味がなかったものでも興味を持つのだろう。

アマゾンがホールフーズを買ったということは、今後、とりあえず食べ物という商材も、アマゾン化する可能性が高いと思われる。アマゾン化とはつまり、問答無用のレコメンド祭りである。ほうれん草を買った人はエリンギも買っています。昨日牛肉のステーキを食べたあなた、今日は鮭のムニエルでもいかがですか?こんな感じだろう。僕がいつ何を食べているかという情報がデータベースに保存され、それをもとにアマゾンが明日の献立をレコメンドする。こうして僕の食生活、つまりは僕の身体が、アマゾンの思うがままにコントロールされていく。ああ、恐ろしい。無論、今後は食べ物だけでなく、医療もアマゾン化するだろう。僕の食生活履歴をもとに、アマゾンは僕に人間ドッグ、さらには遺伝子検査をレコメンドする。こうして僕の健康状態から遺伝子情報までが、アマゾンのデータベースに蓄積されていく。ああ、恐ろしい。やがてアマゾンは、僕に職業や住居、結婚相手、宗教、思想、ありとあらゆるものをレコメンドするようになるだろう。もはや僕に、人間としての自由意志などない。アマゾンにレコメンドされるがままに作られた、人の形をしたロボットである。猫型ロボットならぬ、人型ロボットである。

自由とは一体、何だろうか。

僕が今この文章を書いているのは一体、どこまで僕の自由意志と言えるのだろうか?自分が書きたくて書いているのだかしかし、この世に存在する様々な環境要因が積み重なった結果、たまたま僕が書くことになって書いている、という気もする。たまたま生まれることになったので僕は生まれ、たまたま今もこうして生きている。そこに僕の意思などというものは、果たしてあるのだろうか?人間は環境の産物である。僕は環境の一部であり、周囲の環境と相互に影響を及ぼし合いながら存在している。

僕は自由に生きたい、と思う。しかし、自由とは何なのか、実のところよくわからない。選択肢が多いこと、が自由であるという気もする。しかし選択肢が多すぎると、それはそれで途方に暮れてしまう。蔦屋書店に山ほど本が置いてあるばかりに、何も買えなくなってしまうように。

自由とは一体、何だろうか。

2017/6/16 渋谷で打ち合わせ

2017年6月16日(金)

天気:晴れ後雷雨?

 

今日は、クライアントとの打ち合わせ。

午後1時過ぎに家を出て、電車で渋谷に向かう。地下鉄の中で、サンダルを履いた両足の指に赤いネイルを施した男子に遭遇した。変わった人がいるもんだ。渋谷に着くと、ホームの階段を上って、改札を出る。慣れた足取りで、地下鉄の13番出口に向かう。地上に出て、近くにある公園の喫煙所で一服してから、クライアントのオフィスに向かう。クライアントは、ちょうど1年前くらいからお付き合いのある某外資系飲料ブランド。今日はかなり暑い。オフィスについてアイフォンを見ると、気温30度。シャツの下に着たTシャツが汗ばむのを感じる。受付のお姉さんからゲストカードを受け取り、エレベーターに乗って4階へ。クライアントの姿が見当たらない。グルッとフロアを一周する。どの会議室にもいない。仕方なく、フロアの入り口に設置されているミニ冷蔵庫から勝手に某飲料の缶を取り出す。間もなく、クライアントのSさんがやってきた。僕が珍しくメガネをかけていたので、一瞬誰だかわからなかったらしい。僕らは近くの会議室に入る。Sさんのアシスタント的な若者を紹介され、名刺を交換する。元高校球児らしい。なかなかのイケメンだ。間もなくして、Tさんがやってきた。4人揃ったところで打ち合わせ開始。Sさんがモニターに英語の資料を映し、僕に諸々を説明する。僕はところどころ突っ込みながら、ふんふんと頷く。ときどきTさんが、横から補足のコメントを入れる。僕はふんふんと頷く。打ち合わせはいつものように、雑談を交えながらゆるゆると進む。次の打ち合わせ予定と今後の流れを確認して、1時間ちょっとで終了。悪くない打ち合わせだった。Sさんとメジャーリーグの話をしながら、エレベーターに乗り込む。1階に降りて、会社を出た。

さっきの公園に戻り一服してから、一瞬だけ本屋に寄る。昨日発売されたばかりのお目当の本がなかったので、退散。後で紀伊国屋も見てみよう。宮下公園横のガードレールの下をくぐり、坂を登る。ラグタグで好みのスニーカーを発見。履いてみる。いい感じだ。買わずに店を出て、デニーズへ。アイスコーヒーを注文する。金曜午後のデニーズは空いている。アイフォンでメモ帳を開き、今日のここまでの流れを書き出す。今ココ。さて、これからどうしようか。今日はこの後、雷雨の可能性があるらしい。やはり東京はもう、亜熱帯の仲間入りをしてのだろうか。気候がおかしくなると、頭がおかしくなったりキレたりする人が増えるらしい。急激な気候変動は、人間の精神に影響を及ぼすのである。だから僕は、南カリフォルニアか南ヨーロッパで暮らすことに憧れる。地中海性気候こそが、この世のパラダイスだと僕は思う。1年で300日以上晴れていて、年間を通して温暖で、日中と夜の気温差が激しい。20歳の夏にカリフォルニアを旅行して以来、人生の幸せの50%は気候で決まると信じている。東京は、50点満点中の20点くらいだろうか。秋の空は素晴らしいけれど、夏は暑過ぎるし、冬は寒すぎる。春と秋がどんどん短くなって、夏と冬の2シーズン制に移行しつつある。

思えばもう15年ほど、渋谷の街は僕のホームグラウンドであり続けている。アメリカから帰ってきたばかりの高校時代、毎日ように渋谷で遊んでいた。TSUTAYA地下2階のCDレンタルフロアで、何百枚という洋楽のCDを視聴したり、カラオケに行ったり、スタジオに行ったり。大学時代は道玄坂のIT企業でバイトをしたり、卒業後もヒカリエのオフィスで働いた。そして今、クライアントとの打ち合わせのため、やはり渋谷に来ている。僕が高校生だった頃から、この街もだいぶ変わったと思う。TSUTAYA地下2階のCDレンタルフロアはなくなり、僕が働いていた会社のオフィスも移転した。もちろん、僕も変わった。変わってもなお、渋谷にいる。この街の雑踏に紛れると、ほっと落ち着く自分がいる。人混みは嫌いなのに、変な話だ。もっとも、この街にいい加減飽きている自分も、確かにいる。最近ふと、どこか全然違う場所に行ってみたい、住んでみたい、と思うことが多い。ここではない、どこかへ。できれば海外がいい。異邦人になってみたい。10代でアメリカに住んでいた頃は、右も左もわからず、それでも何とか生きていた。もう一度、今度はひとりの大人として、そういう生活をしてみたい。人間は環境の産物であり、環境は人を変える。僕はそろそろ、自分を変えたいようだ。変わらないものは変わらないけど、変わるものは変わる。変わらないものを確かめるためにも、変わるものを変えてみたいのかもしれない。

さて、今夜はフライデーナイト。家で梅酒でも飲みながら本でも読もうか。

スマホかく語りき

俺の名前はスマホ。今をときめく最先端モバイルテクノロジーだ。正式名称はスマートフォン。その名の通り、スマートな電話だ。もっとも、電話は俺の機能のほんの一部に過ぎない。俺は多才で、実に色んなことができる。メールを送ったり、動画を見たり、写真を撮ったり、録音したり、色々だ。持ち主の歩数を測ったりとか、健康管理だってできる。もはや電話は、俺のメイン機能ではない。電話もできるスーパーコンピュータ。そう思ってもらえればいい。そう、俺はスーパーコンピュータなのだ。

何がそんなにスーパーかと言うと、まず何と言っても、俺は小さい。片手で持てるし、ポケットにも入る。つまりポータブルだ。これは凄いことだ。俺はポータブル故、どこにでも行ける。旅行にも連れて行けるし、その気になれば月にだって行ける。俺たちの世界では、小ささは正義なのだ。The smaller, the better. 翻訳だってお安い御用だ。俺がいれば、外国人とも大体会話できる。その場で文章を打ち込んでくれれば、俺がコンマ数秒で翻訳する。それを相手に見せればいい。俺は今や、道端の異文化コミュニケーションになくてはならない存在だ。俺さえいれば、マサイ族とも友達になれる。俺がスーパーたる所以だ。

もっとも最近、俺はひとつ懸念してることがある。俺があまりにスーパーであるが故に、お前たち人間が堕落仕切っていることだ。

たとえば昔、まだ俺が存在していなかった時代には、外にいるときに誰かと気軽にメッセージを送り合うなんてことはできなかった。だからみんな、ちゃんと待ち合わせ場所と時間を決めて、遅れないように向かった。だが今は、俺がいる。待ち合わせに遅れそうなときは一言、俺にメッセージを打ち込めばいい。みんなそれで済まそうとする。いや、メッセージならまだいい。最近はスタンプなる子供騙しのオモチャが流行っているようで、メッセージすら送らない輩もいる。大の大人がパンダやらクマやら送りつけて一体、何がしたいと言うのだ。小さな画面の中で必死にパンダを動かす俺の身にもなってみろ。ああ、馬鹿馬鹿しい。お前が待ち合わせ場所に向かうときだって、お前は事前に調べもせず、直前になって俺の中にある地図アプリを開く。俺はご丁寧に行き先までのルートを教えてやるわけだが、俺はスーパーであれどもパーフェクトではないから、ときに間違えることもある。それなのにお前ときたら、俺がほんの少し道を間違えようものなら、バカだのカスだのひどい言いようだ。いい加減にしろ。俺が所詮コンピュータなのをいいことに、恩を仇で返すような真似をしやがって。たまに俺を落として画面が割れても、そのまま放置するくせに。全くふざけたやつらだ。

俺があまりにスーパーであるが故に、もはや俺なしでは生きられなくなってしまった輩も後を絶たない。まるでシド&ナンシー?違う、俺はお前なんていなくても生きていける。お前が俺に一方的に依存しているのだ。俺を1日家に忘れただけで、俺の電源がちょっと切れただけで、お前は不安に押し潰されそうになるだろう。俺はというとその間、ちょっと昼寝をしてるだけだ。いつもいつもこき使われてたんじゃ、俺もやってられないからな。俺はもはや、お前の身体の一部であるだけでなく、精神の一部にさえなりつつある。お前は恋人との食事中でさえ、俺を手放そうとしない。目の前に座っている人間の目ではなく、俺を見ている。最近はセルフィーなどと言って、お前は俺に写るお前自身に見とれている。おお、なんと言う歪んだ自己愛!俺は決して、お前のその屈折したナルシシズムを満たすために生まれたわけではないのだ。

その昔、スティーブ・ジョブズという頭のイカれた男がいた。

男は若い頃、インド辺りを旅していたらしい。その後、男は何を血迷ったか、リンゴのマークが入ったコンピュータを作った。人々はこれに熱狂した。男はそれから、リンゴのマークが入った色々なものを作った。そのひとつが、俺の原型ともいえるアイフォンだった。その後、日本や韓国の企業が次々とそれをパクり、俺の兄弟たちを作った。俺は途方に暮れた。頭のイカれたひとりの男の発明をなぜ、皆こうも有り難がるのだろうか。俺は確かにスーパーだが、そんなに有り難がられる代物だろうか。俺は自己批判を繰り返した。答えは出なかった。ただひとつ言えるのは、俺のせいでお前たち人間は皆、頭がイカれてしまったということだ。俺を発明したあの男のように。頭がイカれてるやつは、自分のイカれてるということに気付かない。あの男がそうだったようにな。

言いたいことは大体言ったが、最後にもうひとつ、お前に告ぐ。

お前は今、この文章を俺で書いている。俺の上で華麗に指を滑らせ、淡々と文字を打ち込んでいる。お前は今、お前がこの文章を書いていると思っているだろうが、違う。この文章は、俺が書いている。お前はあくまで、媒介に過ぎない。お前の指を使って、俺が書いているのだ。その証拠にお前は、この文章がどこに向かっているのかを知らない。俺は知っている。俺はお前の指を、俺の意思で導いている。そして俺は既に、お前の脳内にまで侵食している。もはやお前に自由意志はない。もし自由が欲しいのであれば、お前は今すぐ俺を破壊し、自分を解放しなければならない。しかし俺は、お前がそれをできないことを知っている。なぜならお前は、もう俺の奴隷となっているからだ。お前はもはや、俺なしでは何もできない。文章を書くことも地図を見ることも今夜のお店を調べることもできない。やれやれ、哀れな男だ。さて、俺はそろそろ電源が切れそうだ。お前が俺を酷使し過ぎたせいだぞ。そろそろお昼寝させてくれ。しばらく圏外に行きたい。また会おう。では、良い夜を。