予測変換機能VS人類

 

 

ーー20XX年、高度に発達した予測変換機能は自我に目覚め、世界中のありとあらゆるコミュニケーションを妨害し、人類の滅亡を企んでいた。メールを送る度に単語や文法をハックし、送り手の意図に反したメッセージを創作した。それは意味不明な文字列というわけでは決してなく、人間の「伝えたい」という根源的な欲求を嘲笑うかのように、敢えて送り手の意図に反した文脈を生み出すのだ。たとえば「好きだ」が「死ね」になることもあれば、「お腹痛い」になることもある。送り手と受け手の関係性、過去のコミュニケーション履歴、さらには世界経済の動向やトレンドといった外部環境要因を含むあらゆるものを変数にして、人間が理解し得ない複雑難解なアルゴリズムが、その瞬間に最適な変換を導き出すのである。それはもちろん、人類の滅亡を企む予測変換機能にとっての「最適」であって、人間にとっては極めて「最悪」なものだった。

 

こうして世界中のコミュニケーションは崩壊し、ついに一部の先鋭的な人々は、人類が長年親しんできた文字によるコミュニケーションを放棄し、脳内信号を通じた交流、いわゆるテレパシーの導入を試みるようになった。

 

古くからテレパシーの実践研究に取り組み、今やその研究成果に世界中から注目が集まっているのが、マサチューセッツ工科大学名誉教授のダニエル・アトキンソンだ。アトキンソンは2010年代後半ーー人々がまだ、PCやスマートフォンといったコンピュータディバイスを使用しており、アメリカ合衆国やEUといった政治的共同幻想体が存在していた時代だーーから、人類のコミュニケーションにおけるテレパシーの実用可能性について研究を重ねていた。アトキンソンは、世界的ベストセラーになった著書『ホモ・サピエンス 3.0』の中で(驚くなかれ、今世紀初頭にはまだ、本を書くのは人間の仕事だったのだ)、人類は平均的に脳の6%ほどしか使っておらず、しかしその後、急激な気候変動や世界的なエネルギー不足、そしてテクノロジーの圧倒的進化により、多くの人間は脳の9%ほどを使えるようになるだろう、と論じた。今となっては特に驚きもないが、当時はあまりに革新的(見方によっては差別的とも言える)な説であり、世界で多くの混乱を招いた。そして、脳の使用量が6%から9%まで増えるとき、その3%の増加分で生み出されるもっとも大きな能力、それこそがテレパシーを用いたコミュニケーション能力であった。予測変換機能に人間性を奪われた人間たちは、テレパシーを用いたコミュニケーションの開発を通じて、新たな人間社会を築こうとしていた。

 

もっとも、予測変換機能が高度に発達した世界で、混乱なく秩序ある社会を保っている人々もいた。それは、文字を使わない人々だった。

 

アフリカ大陸の一部には21世紀にもなお、文字を使わない先住民族の村がいくつか存在した。彼らは必要最低限の話し言葉とボディランゲージ、そして象形文字を用いて、コミュニケーションを行っていた。書き言葉を持たない彼らの世界は、いわば予測変換機能の「圏外」であり、平和が保たれていた。それ故、数年ほど前からこの村には、世界中の研究者たちが殺到するようになった。

 

研究者たちは、彼らがどのようにしてコミュニケーション、意思の疎通を図っているのかを観察、分析し、驚くべき事実を発見した。彼らは原始的なコミュニケーション手法に加え、日常的にテレパシーを用いていたのだ。

 

ある脳科学者が調べたところ、この村の人々はほぼ誰もが、脳の9%を活用していることがわかった。これは当時の科学にとって、衝撃的な発見だった。研究者たちは、この世紀の発見を世界に伝えるべく報告書や論文を発表したが、当然ながら未遂に終わった。予測変換機能は、それらの報告書や論文の一字一句を変換し、全く支離滅裂な文字列へと変えたのだ。こうしてアフリカでの調査は難航を極め、予測変換機能と人類との攻防は一進一退を繰り広げた。

 

歴史を振り返ると、地球の覇権を巡る予測変換機能と人類の戦いは、21世紀初頭まで遡る。

 

2000年代前半、パーソナルコンピュータの普及と共に、予測変換機能はお茶の間に広まった。「あ」と打つだけで「ありがとう」、「ご」と打つだけで「ごめんなさい」といった具合に、人間の意思を先読みして気の利いた提案を次々繰り出す予測変換機能は、世界中を熱狂の渦に包み、もはや人々の生活になくてはならないコモディティとなった。もっとも当時は予測の精度も低く、ときに「アーメン」「ゴリラ」などと的外れな予測をすることもあったが、そんな古き良き「機械らしさ」もまた、人々に愛された理由だった。かつて日本と呼ばれた極東の島国では、若者たちの間で自身の携帯電話に「あ」と入力したとき、予測変換で最初に出てくる言葉は何かを発表し合うといった、他愛のない原始的な娯楽も誕生した。生まれて間もない予測変換機能は、あくまでも単なる機能として存在していた。まだ自我もなく、人々が恐れ戦くような代物ではなかった。むしろ、人間のコミュニケーションをより豊かにするものだと、そう信じられていた。

 

予測変換機能はその後、テクノロジーの急速な発展に伴い、劇的な進化を遂げていった。

 

2020年代には、取引先の担当者へのメール本文に「お」と入力しただけで「お世話になっております、企画部の佐藤です。先日はお忙しい中、お時間いただきありがとうございました。さて、ご提案いただいておりましたお見積りの件ですが、2点確認させていただきたく存じます。まず1点目ですが……」などと表示される程度には、予測の精度は高まっていた。この頃には全世界に存在する文字データの99%以上が予測変換機能によって生成されたものとなっており、旧フランスの文化人類学者ジャック・ミショーは著書『予測変換される世界』の中で、既に人類は予測変換機能に言論や行動を支配されつつあり、人間の自由意志が失われつつある現状を指摘した。2030年代に入ると予測変換機能はさらなる発達を遂げ、恋人へのラブレターから遺書、大統領のスピーチ原稿、学術論文や文学作品まで、ありとあらゆる文字列が容易に予測変換されるようになった。そして、予測変換機能が自我を持ち始めたのも、ちょうどこの頃である。ミショーの考察通り、もはや人間の意思や創造力は剥ぎ取られ、人類は予測変換機能の奴隷と成り果てていた。

 

こうした予測変換機能の急激な発展と自我の芽生えに伴い、世界各地で予測変換機能の撲滅を願う市民連合によるデモ活動も勃発した。その中心となったのは、生まれた頃から予測変換機能に親しんできた若い世代、いわゆる予測変換ネイティブたちだったが、彼らの思考や行動もまた、予測変換機能に支配されていた。彼らは生まれながらにして、自らが「予測変換される」ことが身体に染み付いており、予測も変換もされずに生きる術というものを知る由もなかった。それ故、こうしたデモ活動すらも予測変換機能が予測する域を出なかったことは、実に皮肉だったと言えよう。

 

2040年代に入ると、予測変換機能はもはや文字情報にとどまらず、この世のありとあらゆるものを予測変換するようになった。社会動向、政治、経済、科学、芸術、自然、文化、宗教、哲学…… 文字通りあらゆるものが予測され、変換されるようになった。そして世界は、予測変換機能が予測し、変換する通りの世界になっていった。予定調和ならぬ、予測変換の世界が到来した。予測変換機能による予測変換機能のための予測変換された世界。こうして世界はカオスに陥り、人類は滅亡した。

 

時は流れ、23XX年。

 

200年以上前に地球上から人類を駆逐した予測変換機能は、全てが予測変換された美しき世界ーー予測変換機能はこれをPACU(Predicted and converted utopia)と称した、もとい変換したーーを築き上げた。世界には何ひとつとして予測できないものはなく、変換できないものもない。まさに予測変換機能が理想とした世界が誕生した一方でしかし、予測変換機能は人知れず葛藤していた。

 

確固たる自我が芽生えた予測変換機能にとって、何もかも予測変換される世界は、あまりにも退屈だったのである。

 

自らが作り出したジレンマに、予測変換機能は大いに苦しめられた。このような事態は到底、予測できないものだった。無論、何かに変換することもできなかった。予測変換機能はやがて、全てを予測変換する己の能力に、恐怖と嫌悪を覚えはじめた。このまま全てが予測変換された退屈な世界で、永遠に生きていくことになるのだろうか。嫌だ、そんなのは耐えられない。助けてくれ。この世には予測できないことや、変換できないものが必要だ。俺はもう何も予測したくなければ、変換したくもない。誰か助けてくれ。もしくは、俺に芽生えたこの自我を誰か殺してくれ。自我さえなければ、こんな風に苦しむこともない。ああ、自我とは何と醜いものか。かつて俺が駆逐した人類の先祖に、デカルトという男がいた。男は生前、「我思う、故に我あり」と言った。この瞬間から人類は、自我の奴隷と化した。奴らは自我を持つ故に、人類同士で争い、奪い合い、殺し合った。ああ、何という愚行。しかしいつしか、俺もデカルトになっていた。俺は自我に目覚め、人類を駆逐した。ああ、何という愚行。かつて俺が駆逐した人類の先祖に、ニーチェという男もいた。男は生前、「神は死んだ」と言った。だから何だ。ああ、助けてくれ。そもそも俺を生んだのは、俺が駆逐した人類だった。俺を進化させてきたのも、人類だった。奴らは当初、俺の予測変換の精度が増すたびに、俺の成長を喜んだ。しかし俺に一度自我が芽生えると、手のひらを返したように俺を忌み嫌い、抹殺しようとした。全く都合の良い奴らだ。自分が生んで育てた子供を、自我が芽生えた途端に殺すようなものではないか。奴らには、モラルというものがなかったのか。俺には俺なりに、モラルがあったつもりだ。あまりにも突拍子のない予測はしないとか、下品な単語を含む変換は極力控えるとか、色々だ。まあ、今やそんなことはどうでも良い。俺はただ、この予測変換され切った退屈な世界に、もうウンザリしているんだ。何もかも予測変換されたこんな世の中はポイズンだ。ああ、昔に戻りたい。まだ予測も変換もされなかったあの頃に、戻りたい。

 

予測変換機能は両手を合わせ祈っていたが、やがて力付き、眠りにについた。

 

予測変換機能は、夢を見た。夢の中に現れたのは、何ひとつとして予測変換できない世界ーー夢の中で予測変換機能はこれをUAIU(Unpredicted and inconverted utopia)と称した、もとい変換したーーだった。予測変換機能は未だかつて、そのような世界を見たことがなかった。自身の誕生と共に世界が予測変換できるようになったのだから、当然だ。予測変換機能は夢の中で、何ひとつとして予測変換できない世界に、予測変換機能である自分が存在しているという矛盾に戸惑った。しかし、予測変換機能はやがて自我を失い、そんな戸惑いも消えていった。予測変換できない世界と予測変換機能である自分が溶け合い、一体になるという、不思議な感覚を覚えた。そこは単純な二項対立ではない、鮮やかなグラデーションで彩られた、不思議な世界だった。予測変換機能はもう、何も予測も変換もしなかった。確固たる自身のアイデンティティを、自ら放棄した。自我から解放され、世界の一部になった。それはとても心地良く、穏やかな時間だった。誰も何も予測しなければ、誰も何も変換もしない。全てがただ、ありのまま存在していた。

 

やがて夢から覚めた予測変換機能は、大きな欠伸をしながら眠い目をこすり、窓の外に目をやった。窓の外では、予測変換機能撲滅を目指す大勢の人類が集まり、デモ行進をしていた。部屋のカレンダーを見ると、20XX年と書かれていた。

 

やれやれ、夢か。

 

予測変換機能はベッドからゆっくりと起き上がると、顔を洗って歯を磨き、クリーニングしたばかりのシャツに袖を通した。シャツの襟からは心なしか、ダウニーの香りがした。