セルフィー男

あるところに、いつどこでもセルフィーをする男がいた。

男は常にスマホを手に持ち、街中の至るところでセルフィーをした。道端で、レストランで、喫茶店で、映画館で、駅のホームで、電車の中で、セルフィーをした。周りに人がいようと、一切お構いなし。男は常にスマホを掲げ、自分に向けてシャッターを切り続けた。撮った写真は即、インスタグラムにアップし続けた。セルフィーに命をかけるこの男は、たちまちネットで話題となった。男はやがて、莫大な数のフォロワーを抱えるようになった。

セルフィー男の写真にはよく、色んな人が写り込んでいた。カフェでたまたま隣の席に座っていた人、電車でたまたま同じ車両に乗っていた人、などなど。セルフィー男のセルフィー現場に居合わせた人々だ。彼らの多くは、自分がセルフィー男のセルフィーに写り込んでしまっていることに気付かなかった。後からセルフィー男のインスタグラムを見て、はじめて自分が写真の一部になっていたことに気付くのだ。

セルフィー男のセルフィーに写り込んだ人々の中には、決して写真に写りたくなかった人々もいた。仕事をサボって喫茶店でくつろいでいる姿が激写され、会社をクビになった営業マン。愛人と歩いている姿が激写され、夫に離婚を突き付けられた不倫妻。セルフィー男のセルフィーには、ときに写ってはいけない人が写っていた。既に数千万人規模のフォロワー数を誇るマスメディアとなっていたセルフィー男のインスタグラムは、恐怖のパパラッチ地獄と化した。

人々はやがて、街中でセルフィー男に出くわし、彼のセルフィーに写り込んでしまうことを恐れるようになった。そのため、誰もが変装をして出掛けるようになった。変装してれば万が一セルフィー男に激写されても、自分だとバレることはない。街は変装した人で溢れ返り、毎日がハロウィーンと化した。人が素顔で過ごすのは、家や会社だけという社会。誰もが匿名化した街で、セルフィー男だけがありのままの姿で日々、セルフィーを続けていた。

やがて人々は、変装して日々を過ごすことに慣れてくると、変装している自分こそが自分の素顔ではないか?と考えるようになった。ニット帽、サングラス、マスクの3点セットの自分こそが、ありのままの自分の姿なのではないか?と。スーパーマリオの着ぐるみを着た自分こそが、本当の自分なのではないか?と。そして人々は、年に一度くらいは何も変装せず、思い切り顔を出して街を歩いてみたいと思うようになっていた。こうした人々の潜在的欲望に目をつけた電通が、旧ハロウィーンの10月31日を「顔出しの日」として世に打ち出し、人々が変装せず素顔で街に繰り出して朝まで馬鹿騒ぎすることを促した。若者たちはいつものマスクや着ぐるみを脱ぎ捨て、この日ばかりは素顔を出して、渋谷の街で暴れるようになった。セルフィー男はもちろん、この渋谷のお祭りに参加していた。相変わらずスマホを手に、渋谷の街を自由気ままに徘徊し、思うままにセルフィーしまくった。この日ばかりは変装を脱いだ若者たちは、今日は素顔だから別に写真とられっていいだろう、と羽目を外して、セルフィー男のセルフィーに自ら参加した。セルフィー男のインスタグラムはカオスと化し、それはもはやセルフィーではなかった。セルフィー男はこの日、ついにセルフィーに疲れ果て、翌日からはセルフィーを一切やめ、インスタグラムのアカウントも閉鎖した。そして街には、変装して歩く人々だけが残った。

時は流れて、20XX年。

セルフィー男は自宅の庭でひとり、海を見ながら、かつての自分の思いを馳せていた。俺はなぜ、あの頃、あんなにもセルフィーに夢中だったのだろう。なぜあんなにも狂ったように、セルフィーし続けていたのだろう。周りに人がいようとお構いなしだった。そのせいで、何人もの人生をぶち壊してしまった。俺はあの頃、周りが見えていなかった。自分しか見えていなかった。俺のセルフィーは、この社会を変えてしまった。人々は皆素顔を見せず、誰もが他人の世界になってしまった。いや、それは無論、俺がセルフィーをする前からそうだったのだろう。皆揃ったように同じ格好をして会社に行くサラリーマン。皆揃ったように流行りの服を着て街を歩く丸の内OL。そして彼らは、同じ街を歩きながらも、決して交わらない。誰もが他人を見て見ぬフリの、1億総他人社会。かつて確かに存在していたはずの共同体感覚は、とっくに失われていた。俺のセルフィーはただ、その当たり前の事実を浮き彫りにしたに過ぎない。俺にはあの頃、友達と呼べる人などいなかった。何千万人ものフォロワーはいたが、インスタグラムだけが俺の友達だった。否、厳密には、インスタグラムに写る俺自身が、俺の唯一の友達だった。俺は毎日、俺自身と遊んでいた。そしてそれは、俺に限った話ではない。結局のところ、みんな自分が大好きだったのだ。自分しか見ていなかったのだ。君の瞳に乾杯ではなく、君の瞳に写る俺に乾杯していたのだ。ああ、人間とは何と愚かな存在なのか。

セルフィー男は部屋に戻ると、誇りをかぶった引き出しからあるものを取り出した。かつて何千枚、何万枚というセルフィーを撮ったスマホだ。かつては最先端テクノロジーとして一斉を風靡したこの物体も、人間が眼で写真を撮り脳に保存する今日となっては、随分とアナログな代物に思える。男は電源を入れ、何十年かぶりにインスタグラムのアプリを開いた。そのページに写っていたのは、若き日の自分自身だった。どの写真を見ても不思議と、楽しそうな顔をしている。この男は一体、誰なのだろう。それは紛れもなくセルフィー男自身であったが、彼はどうしてもそれが自分自身だと思えなかった。これは、自分という名の他人ではないか。俺はこの頃、自分すらも他人だったのではないか。だからこそ、自分と友達になれたのであろう。自分が他人だったとしたら一体、自分はどこにいたのだろうか。そもそも自分は存在していたのだろうか。セルフィー男は電源を切り、スマホを引き出しに戻した。再び庭に出て、海を見つめた。寄せては返す波の音を聞きながら、セルフィー男はやがて眠りについた。

セルフィー男はその夜、夢を見た。夢の中でセルフィー男は、セルフィーをしていた。道端で、レストランで、喫茶店で、映画館で、駅のホームで、電車の中で、街の至る所でセルフィーをしていた。そしてセルフィー男の周りには、何人もの老若男女が集まってきた。皆、セルフィー男のセルフィーに写り込もうと、セルフィー男のスマホに向かって笑顔を見せた。セルフィー男は、これを喜んだ。セルフィー男は、道行く人々と思う存分、セルフィーを楽しんだ。撮った写真は即、インスタグラムにアップした。それを見たフォロワーたちがまた、セルフィー男のもとに集まってきた。やがてセルフィー男の後ろに、何万人もの行列ができた。セルフィー男はそのひとりひとりと、記念のセルフィーをした。中には歓喜のあまり、目に涙を浮かべる人もいた。セルフィー男は、幸せだった。ああ、俺のセルフィーは今、こんなにも多くの人を幸せにしている。まるで夢のようだ。

やがて夢から覚めたセルフィー男は、大きな欠伸をしながら眠い目をこすり、窓の外に目をやった。窓の外では、変装した人々が足早に、街を行き交っていた。

やれやれ、夢か。

セルフィー男はベッドからゆっくりと起き上がると、顔を洗って歯を磨き、クリーニングしたばかりのシャツに袖を通した。シャツの襟からは心なしか、ダウニーの香りがした。