吾輩は亀である

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吾輩は亀である。名前はまだない。

今日も私はいつものように、店番をしていた。何ひとつ変わったことはない、平凡な月曜日の午後だった。2時半頃、とある男女が店にやってきた。二人とも30歳くらいだろうか。男は白いシャツを着て、肌は浅黒く痩せていた。女は髪を後ろで結び、グレーのタンクトップにジーンズを履いていた。一見すると何の変哲もない、今風のアベックだ。二人はしばし、部屋のテーブルに向かい合って座り、風鈴の絵付けを行なっていた。

しばらくして、先に絵付けを終えた男の方が、私の横を通って店の外に出た。女を待っている間、一服でもしに行ったのだろう。やがて男は店に戻ってくると、ようやく私の存在に気付いた。私の家、もとい水槽は、店の階段を上り二階の部屋に入ったすぐ右にある。男はしばし、水槽の上から私の姿をまじまじと見つめた。私のような立派な亀に出会うことが、よほど珍しかったのだろう。無理もない。私の甲羅は極めて大きく、さらには頑丈で、同時にある種の美しさも備えている。水槽の中をゆっくりと這うようにして足を動かす私の仕草は、人間のそれとは比べ物にならないほど優雅であることに疑いの余地はない。自分で言うのも何だが、顔もなかなかハンサムだ。過去に何百人、何千人という人間の女ーー主には子供だがーーが私を見て、悲鳴にも似た黄色い声を上げた。

男は水槽に顔を近付け、私の顔をじっと覗き込んだ。変わった男だ、と私は思った。言うまでもなく、私の最大のチャームポイントは甲羅だが、私の顔にここまで興味を持つ人間は珍しい。男は両目を見開き、私の目をじっと見た。睨みつけた、と言っても良いかもしれない。それほどまでに男の目は、どこか挑発的な色合いを帯びていた。面白い、と私は思った。私は前足を水槽の壁に這わせ、立ち上がった。水中から半身を出し、男の目を見上げた。男は一瞬、驚いたような表情を見せたが、私の顔を凝視し続けていた。私は口をパクパクさせ、男を威嚇した。

正直に申し上げると、私は今朝から何も食べていなかった。つまり、腹が減っていたのだ。店の主人ーー私のパトロンであるーーは今朝から忙しく、私は何も食べるものを与えられていなかった。まあ、よくあることだ。私は密かに、今目の前にいるこの男が私の空腹に気が付き、何か食べるものを与えてくれるだろうか、と期待した。しかし男は、そのような素振りは一切見せず、代わりに取り出したのはアイフォンだった。男はアイフォンを水槽の前に掲げ、パシャパシャと写真を撮り出した。お安い御用だ。私は持ち前のサービス精神で頭を突き出し、決め顔を披露した。男は夢中で写真を撮った。何枚か撮ったうちの一枚がとてもよく撮れたらしく、男は満足そうな笑みを浮かべた。被写体が良いのだから、当然だ。

男はアイフォンをしまうと、再びまじまじと、私の顔を見つめた。男はまるで、生き別れた兄弟に再会したかのようだった。もっとも正直に申し上げると、私の方もこの男に、何か得体の知れない親近感のようなものを覚えていた。それはこの男が、いかにも鈍くさく、のんびりとした時間を生きているように、感じられたからであった。人間はしばし、どこか鈍くさかったり、ノロノロと動く人間を「亀のように」などと言う。私たち亀は人間にとって、鈍くささやノロさの象徴とされているようだ。傍迷惑な話である。まず第一に、私は動作こそスロウであるものの、決して鈍くさいわけではない。むしろ、極めて鋭敏な感覚を有している、と自負している。それは、動作がスロウであるからこそ、とも言える。私はこの立派な甲羅を背負っているが故、足を自由に動かすこともままならない。文字通り、人間とは背負っているものの重さが違うのである。足を自由に動かせないがために私は、常に周りの状況を俯瞰しながら、一歩先、二歩先の未来を予測する。たとえば、この男が今にも右手をポケットに突っ込もうとしていたそのとき既に、私は写真を撮られることを予感していた。このように、周りを見て次に何が起こるか予測し行動することを、人間の世界では「空気を読む」などと言うようだが、普段は水中にいる私にはあいにく、読むに値する空気がない。従って、私は決して周囲に流されたり同調圧力に屈しているわけではなく、単に予測しているに過ぎない。そして、その予測の精度が極めて高い、というだけの話なのだ。

そんなわけで私は、多くの人間が考えているほど、愚鈍な生物ではない。むしろ愚鈍なのは、人間の方である。

私はこれまで、この水槽越しに、数多くの愚鈍な人間は見てきた。大人から子供まで、様々だ。彼らの愚鈍さというものは、私のように動作がスロウであるとか、そういった類のものではない。端的に言うと、頭が悪いのだ。どれだけ手足を機敏に動かしていても、まるで知性の欠片もない人間というものを、しばし見かける。彼らに共通しているのは、想像力の欠如である。たとえば、この店を訪れる人間の多くは私を見ると、水槽の前にしばし戯れ、写真を撮り、それで終わりだ。私が毎日この水槽で何を考え、何を思い、どんな気持ちで写真を撮られているか。そんなことを彼らは、微塵も考えはしない。想像力とは、他者の立場に立ってものを考える、ということである。その他者というものが、亀であってはいけない理由などないだろう。私の立派な甲羅は何のためにあるのか、考えたことがあるだろうか?正直に申し上げると、私はない。生まれたときには既に、甲羅を背負っていたのだ。これは無論、何かを背負うものの宿命である。背負った以上は、命をかけて守り抜く。そこに理由などないのだ。

この世のありとあらゆる生物は、大きくわけると2種類にわけられる。何かを背負って生まれてきたものと、そうでないものだ。

私はもちろん、前者である。そして人間は、後者だ。これこそが、亀と人間の間に横たわる深い溝である。もっとも人間のなかにも、生まれてきた後に自ら、何かを背負いたがる物好きもいる。近頃は、私の店にもよく、外国人のバックパッカーがやってくる。彼らは大抵、背中に大きなリュックを背負い、大粒の汗を流しながら店に入ってくる。彼らは何かを背負いたい、背負わずにはいられないのだろう。私には、彼らの気持ちがよくわかる。人も亀も、背負うべきものがあってこそ、その生は輝きを増す。無論、私は生まれて此の方、何かを背負わなかったことがない。いつ何時も、この甲羅と共に生きてきた。私はこの甲羅に、命を救われたこともある。あるとき、鈍臭い女子中学生がやはり私の写真を撮ろうとして、アイフォンを水槽の中に落とした。アイフォンは水しぶきをあげ、水中で私の甲羅に激突した。もしこの甲羅がなかったら、私は落下したアイフォンの衝撃に耐えられず、死んでいただろう。しかし私は無傷で、代わりに死んだのはアイフォンだった。甲羅はアイフォンよりも強し。亀が人間の文明に勝利した瞬間だった。私はこのときほど、自らの甲羅を誇りに感じたことはなかった。

人間という生き物はどうも、速度というものを愛しているようだ。何ごとも速ければ速いほど良い、と思い込んでいる節がある。しかし私に言わせると、それは間違っている。豊かな生というものに、速度はさほど必要ない。私はこの小さな水槽で日々、たまに食べるものを与えられながら、のらりくらりと毎日を過ごしている。それで充分なのだ。私はいつも水槽から、目まぐるしく動き回る人間たちを見て、思う。何をそんなに生き急いでいるのだ、と。私は言いたい。もう少し私のように、のんびりしたら良いではないか。住む家があり、食べるものがある。それで充分ではないか。確かに私は、決して俊敏ではない。俊敏ではないことが、亀を亀たらしめているとは言え、私ももう少しばかり素早く動けたら、と思うこともある。しかし今のところ、何不自由ない暮らしを送っていることもまた、事実である。世の中は今、過剰である。モノや情報が溢れ、ありとあらゆる欲望を刺激する罠が、そこら中に仕掛けられている。私は言いたい。人間よ、身の丈を知れ、と。私の目から見て、彼らは必要以上のものを抱え込み、それを持て余している。少なくとも亀目線では、そのように見える。豊かに生きるために、本当に必要なものは驚くほど少ない。私だったら、水槽と水と少しばかりの食料、そして言わずもがな、甲羅さえあれば生きていける。私は言いたい。たとえばもし、私と人間が100メートル走を競うとしたら、私は負けるだろう。悔しいが、完敗だろう。しかし今から100年後、地球で生き延びているのは果たして、亀と人間のどちらだろうか?おそらく亀だろう。これは何も、私自身が亀だからといって、ポジショントークに陥っているわけではない。急激な気候変動、エネルギーの枯渇、生態系の異変、ありとあらゆる今後の未来で起こり得ることを見据えると、このような結論に至る他ないのである。確かに私は、人間のように器用に手先を使うこともできなければ、鳥のように空を飛ぶこともできない。飛べない豚はただの豚だが、飛べない亀もただの亀である。しかし、仮に私が空を飛べたところで果たして、それが私の生存に寄与するのであろうか。答えは恐らくノーだ。空中にはーー私は空を見たことがないので、あくまでも想像だがーーあまりにも敵が多い。いくら私の甲羅を持ってしても、カラスのくちばしに挟まれたり、ドローンに激突したりしたら、ひとたまりもない。だから私は、翼が欲しいなどとは思わない。私はこの甲羅と共に、水の中で生きていくのである。これまでも、そしてこれからも。

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