スポーツジャーナリズムにおける『マネーボール』の功績

 


ふと思い立って、久しぶりに『マネーボール』を再読。

あまりの面白さに、一気に読み通してしまった。

 

著者のマイケル・ルイスは、今やアメリカを代表するベストセラー作家。

おそらく『マネーボール』がもっとも有名だが、彼の本業というかメインテリトリーは金融だ。

大学卒業後にソロモン・ブラザーズで3年働いた経験をもとに、1989年に『ライアーズ・ポーカー』という金融ノンフィクションでデビューした。

その後も『マネーショート』『フラッシュボーイズ』など、ウォール街を舞台にした作品を多く出している。

マネーボール』もいわば、メジャーリーグという特殊な世界を、金融ノンフィクション作家の視点で描いた作品だ。

 

メジャーリーグのフロント業務は、金融商品の取引に似ているところがある。

 

限られた予算とルールの中で、可能な限り良いチームを作るのが球団フロントの仕事だ。

良い選手をなるべく安く買い、不要な選手をなるべく高く売る。

将来のために、若く優れた選手に先行投資する。

メジャーリーグのチーム編成はある意味、合法的な人身売買と言っても過言ではない。

マネーボール』の主人公であるアスレチックスGMビリー・ビーンは、その人身売買を極めて科学的、数学的な手法で実施し、チームの黄金時代を築いた。

ルイスはそのストーリーに惚れ込み、アスレチックスの球団内部を徹底取材して、この本を書いた。

 

マネーボール』は、いわゆるスポーツジャーナリストが書いた本ではない。

野球界という閉鎖的な世界の外側にいる人間、それも作家として圧倒的な実力を持つ人間が一定期間、内側に潜り込んで書いた本だ。

それこそが、この本が面白い最大の理由だと思う。

 

たとえばスポーツ紙の記者みたいに、長年野球界の内側で現場取材を続けているような人には、こういう本は書けないだろう。

彼らには、トレードの最新情報をスクープする人脈や、マイナーリーグの有望選手をリストアップするような知識はあるかもしれない。

ただ、そうした内輪向けの「情報」しか、彼らは書けない。

プロスポーツという特殊な世界で起きていることを、一般社会にも伝わるように抽象化して書ける人はほとんどいない。

マスメディアのスポーツ報道は基本的に、内輪向けのゴシップに終始している。

 

マネーボール』は、そうした従来のスポーツジャーナリズムとは、全く違う視点で書かれている。


ルイスはメジャーリーグという題材で、いわば「イノベーションとは何か?」ということを書いた。

それこそが、ルイスが本当に書きたかったこと、伝えたかったことだと思う。

ルイスは『マネーボール』出版前の1999年に、シリコン・バレーのITバブルを題材にした『ニュー・ニュー・シング』という作品を書いている。

時代的な背景もあって、2000年前後のルイスの主たる関心はおそらく「イノベーション」にあったのだと思う。

 

ルイスが29歳のときに書いたデビュー作『ライアーズ・ポーカー』は、80年代のウォール街の狂気を描いた本だ。

ウォール街シリコンバレーと来て、メジャーリーグの話を書いたというのが面白い。

もっとも2000年前後、メジャーリーグは経済的に完全にバブルだった。

リーグ全体の収益も選手の平均年俸もこの時期、右肩上がりだった。

その結果、ヤンキースのような金満球団とアスレチックスのような貧乏球団の格差が一気に広がった。

マネーボール』に描かれた物語は、そうした背景から生まれたものである。

ルイスはそのときどきで「もっとも儲かっているところ」に目を付けて、そこで何が起きているかを書き続けてきた。

 

マネーボール』によってセイバーメトリックスは今や常識になったが、『マネーボール』に匹敵するようなスポーツノンフィクションはなかなか出てこない。

レイズの改革を分析した『エキストラ2%』や、パイレーツの成功を描いた『ビッグデータ・ベースボール』も、『マネーボール』の二番煎じ感が否めない。

マネーボール』の最大の功績は、いわばスポーツジャーナリズムの新しい雛形を作ったことだと言えよう。

 

マスメディアのスポーツ報道は、おしなべて退屈である。

既に決まった型があり、その型に最新の情報を当てはめていくという作業に終止している。

これはアメリカでも日本でも、あまり変わらないように思える。

マネーボール』は、そうした閉鎖的なスポーツジャーナリズムに風穴をあけた。

それは、ルイスがあくまでも個人の作家であり、マスメディアの文脈に乗っていなかったからこそ、できたことだろう。

 

ルイスのように全く新しい視点で、スポーツという題材を料理する人がもっと出てきたらきっと面白いと思うのだけれど、なかなか出てこない。 

マネーボール』に出てくる頭の固いベテランスカウトたちと同様、頭の固いベテラン記者たちがまだまだ居座っているのが現状だ。

ビリー・ビーンのようにトップダウンで改革を行うリーダーが登場しない限り、なかなか新しいものは生まれないのかもしれない。